「もう行ってないです。たぶん、もう半年くらい」
そう言いながら、美咲さん(仮名・28歳)はアイスコーヒーのストローを指先で回した。
平日の夕方。新宿駅から少し離れた喫茶店だった。
歌舞伎町の話になると、彼女は何度か笑った。だが、その笑い方にはどこか照れのようなものが混じっていた。
「でも、連絡先は残ってます」
担当ホストの名前は、今もスマートフォンの中にある。
消そうと思ったことはある。
何度も。
それでも消せなかった。
—
初めてホストクラブに行ったのは25歳のときだった。
「職場の先輩に連れていかれたんです。本当に興味なかったんですよ」
当時は都内の会社で事務職として働いていた。
朝起きて出勤し、帰宅して寝る。
休日は動画を見るか買い物に行く程度。
「今思うと、結構しんどかったのかもしれないです」
その日、店で担当になったのがAだった。
売れっ子というわけでもない。
派手なタイプでもなかった。
「なんで担当になったんだろう」
そう言って彼女は少し考える。
「たぶん、一番普通だったからです」
仕事の愚痴を話した。
上司のこと。
家族のこと。
友人にも言えなかったこと。
Aは特別なことを言ったわけではない。
ただ聞いていた。
「それが良かったんだと思います」
—
最初の半年は、月に数回通う程度だった。
給料の範囲内で遊んでいた。
自分では依存しているつもりもなかった。
「むしろ私は大丈夫なタイプだと思ってました」
そう言って苦笑する。
多くの人がそう言うのだろう。
—
転機は1年目の冬だった。
担当と他の女性客とのやり取りを知った。
ホストクラブでは珍しい話ではない。
だが、美咲さんは傷ついた。
「当たり前なんですけどね」
少し沈黙する。
「分かってたんですよ。仕事だって」
それでも感情は理屈通りには動かなかった。
その日の帰り道、彼女はLINEをブロックした。
「これで終わりにしようと思いました」
—
終わらなかった。
3日後、自分で解除した。
「気になっちゃったんです」
連絡が来ているかもしれない。
何か言われるかもしれない。
そんなことを考えてしまったという。
解除したあと、特に劇的な出来事があったわけではない。
謝罪があったわけでもない。
愛の言葉をかけられたわけでもない。
それでも店に戻った。
—
「好きだったんですか?」
そう聞くと、彼女は少し首を傾げた。
「好き……だったとは思います」
だが、それだけでは説明できないという。
「会いたかったのは担当かもしれないですけど、戻りたかったのは歌舞伎町だった気もするんです」
店に行けば知っている顔がいる。
担当がいる。
キャストがいる。
毎週同じ席に座る客がいる。
そこには自分の居場所があった。
—
3年間で何度も辞めようとした。
お金が苦しくなったこともある。
店に行かないと決めた週末もある。
ブロックしたことも一度ではない。
それでも完全には離れられなかった。
「担当を切れなかったというより」
彼女は窓の外を見ながら言った。
「自分の居場所を切れなかったんだと思います」
—
取材の最後。
今でも連絡先は残っているのか、もう一度聞いた。
「残ってます」
連絡することは。
「ないです」
これから先も。
「たぶん、ないと思います」
そう言って彼女は笑った。
それなら、なぜ消さないのだろう。
少し考えてから、彼女は答えた。
「消したら、本当に終わったことになるじゃないですか」
コーヒーはすっかり冷めていた。
店を出る頃には外は暗くなり始めていたが、歌舞伎町のネオンはこれからが本番だった。


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